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5月のはじめ、誰かが作ったカウントに従い20歳になった。”ハタチ”、それがどうにか素敵な節目にしなければならないようで嫌気がさした。

 

どうありたくて、どうなりたいのか。単純な願望の中に”どう見せたいか”というcomplexが混じった。「私らしい」の通りに沿うにはどの道が正しいのかを選ぶ。

 

格好いいと思う人や尊敬できる人に”わかってるやつ”と思われたくて必死になって、時に”わかってますよ”と示してみた。その有様が滑稽で、みすぼらしいことは気づいていた。

防御反応ともいうべきジャッジは加速していて、「あいつは本物」「こいつはフェイク」「くだらない人間だな」だとか。

 

 

 

イケてる人と知り合いになれば、私もそうなれる気がした。

 

 

 

一方で"フツー"に憧れた。変わってるね、個性的だね、比較的言われてきた方だと思う。それでも、奇抜な服を着ながら突拍子のない発言をして、わかりにくいことをSNSにポスト、サブカルチャーを語って時々場面にそぐわないテンションで過ごす、これが出来ればそのレッテルは誰でももらえるし、有り余っていることは承知していた。"個性的な子""変わってる子"としてカテゴライズされても、決して唯一無二ではない。同一のラインにいるだけだった。

 

 

というか、好きな人がいたときに邪魔だった。

もっとフツーであったら、フツーの女の子だったら、彼はフツーに可愛らしい女の子を見つめていて「私らしさ」の通りを選び生じたクセを悔いた。私の軸は気取ってるだけで脆かった。

 

 

まあ、もし私がもっとフツーの女の子であったら実っていたかどうかの保証はないし、自分で思ってるよりもずっと"普通"だろうから

 

 

結局はフツーに唾を吐きながらも泳ぐ普通を目で追っている、

そんなどっちにも振り切れてない自分が居た堪れなくて仕方がないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

最近また、音楽が楽しい。

 

止まって見えた世界は確実に動いていて、

私もちゃんと歩いていた。