romance

 

 

哲学的問題への関心は、この世界への愛着である

 

どうにも勤勉というには程遠い学生だったが、いつも近くに哲学がある環境は、それはとても心地がよかった。私たちは、ずっとわからない何かを確実なように語っていた。

 

卒業論文を書いた。大したことのない文章だが、心底で漂うテーマであり、人生において重要なものだった。

論文に対して教授からは「哲学的な思索ができている」と手短な評価をもらった。私は、哲学的な思索が簡単なものではないと知っているから、ほしいと思っていたものだから、それだけでとても嬉しかった。執筆期間は特殊な感情と精神状態だったが、今思えばあれが思索という行為だったのかもしれない。

 

そして、

自分の中をめぐるものが、放たれ、誰かと触れた時、新たな脈を打つ

その感覚が、とても気持ちの良いものだと知ることができた。

 

✴︎

光なき、形而上の世界

僕は夢をみ続ける。

目を閉じた暗闇の中

ただ、ロマンチックに身を委ねて

✴︎

 

以下は、卒業論文の一部

もし稀に、続きが読みたいと思ってくれる方がいたら、気軽にInstagram@featfateにDMを送ってほしい

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人生の意味をめぐる問題の難しさについて
──どのような仕方で私たちに提起するのか──

 

目次
はじめに

第一章 人生の意味をめぐる問題とは

第二章 人生の意味をめぐる問題の感覚的側面

第三章 人生の意味をめぐる問題との出会い
第一節 人間のもつ超越的意識
第二節 人生の眺め方

第四章 人生の意味を求める理由

第一節 対象化を担うものとしての人間

第二節 人生の対象化

おわりに

参考文献

 

 

はじめに
私たちは今、目の前に開かれている日々を生きている。生活をする中で起こるあらゆる出 来事や感情と向き合いながら、自分の人生を送っている。ある時、不意にこのような問いが 投げかけられる「この人生に何の意味があるのか」。それは不幸に苛まれ絶望感に満ちた時 の場合もあれば、何の予兆もなく平然と過ごしている時の場合もある。この問いは壮大で果 てしないものだが、決して特別なものではなく、誰もが一度は経験したことのある問いだ。 しかし、この問いを答える際、自分に向けられた他の日常的な問い──例えば「あなたの好 きな食べ物は何ですか」──とは異なる答えづらさを持っていることに気づくだろう。好き な食べ物を聞かれた時のように、自分が正しいと思うことを答えればいいのだが、どういう わけだかそのようにはいかない。この答えづらさは、まさに「この人生に何の意味があるのか」という問題に含まれる難しさを表している。
「この人生に何の意味があるのか」という問いに対する応答の試みは、しばしば「人生の 意味をめぐる問題」として取り扱われてきた1。そして、これまで多くの人が挑戦した問い にも関わらず、未だ終着点が見えていない。
本稿では、「人生の意味をめぐる問題」の難しさを考察する。〈「人生の意味をめぐる問題」 がなぜ難しいのか〉という問いに対する答えは、同時に〈「人生の意味をめぐる問題」がど のような仕方で私たちに提起しているか〉を表し、壮大で果てしない問いの輪郭をはっきり とさせることへ繋がる。
第一章では、人生の意味をめぐる問題とはどのようなものかを説明する。第二章以降、人 生の意味をめぐる問題がこれほどまでに難しい理由を探る。第二章では、この問題がもつ感 覚との結びつきを理解し、第三章では、トマス・ネーゲルの論文「人生の無意味さ」を頼り に、この問題の根源と応答の難しさについて考察する。第三章では、ハイデガーの技術論で 語られる人間のあり方を通して、私たちがこの問いの答えを求め続ける理由を考察する。

 

 

第一章 人生の意味をめぐる問題とは
最初に、人生の意味をめぐる問題とはどのようなものかを定義する。しかし、人生の意味をめぐる問題について、共有された明確な定義があるわけではない。そのため本稿では、この言葉が使用される際の最低限の共通認識である、人生の意味についての思索を総称して 人生の意味をめぐる問題という言葉を使用する。つまり人生の意味をめぐる問題とは、人から発される「この人生は何の意味があるのか」という問い自体とこの問いに対する応答の試 みを指す。
次に押さえておかなければならない点は、人生の意味をめぐる問題は幸福をめぐる問題 とは区別して考えられるということだ2。南アフリカの哲学者サディアズ・メッツは『人生 の意味:分析的研究』の中で、英語圏における「人生の意味」についての議論を総ざらいし、 このテーマに関する哲学的議論の見取り図を完成させた3。著書において彼は、人生の意味 は幸福や道徳的な正しさは区別されたものであると定義して、議論を展開している。また、 佐藤は「人生の意味を問う問いが、順境においても発せられるという事態は、意味のある人 生と幸福な人生とが完全に同じものではないと気付かせてくれる。5」と述べ、人生の意味 をめぐる問題と幸福をめぐる問題が別のものとして生じていることを明らかにした。
人生の意味をめぐる問題は、時おり、無意味なものだと判断される。佐藤は、この問題に 取り掛かること自体が、一般の社会人や哲学の専門研究者から、⻘年特有の未熟な思索だと 非難されたり、一種の素人趣味だと軽侮されたりする実情を認めた上で、このような否定的 な評価の根拠は、この問いに対する答えが一見して容易に見つからないことにあると主張 する。しかし「もしこの推測があながち間違いではないとすれば、この問いに拘泥すること を非難する者は、この問いを問うことそのものに価値がないと主張しているのではなく、容 易に答えのでない問いに多くの時間と労力を割くことの実際的な愚を説いているにすぎな い。」と続け、このように非難する者も、もしその答えがわかるのであれば、それを知りた いのだと語る。6
一方で、この問題によって逃れられない苦しみを抱く者もいる。ロシアの作家レフ・トル ストイはその苦しみと問題の底深さを以下のように呈した。

 

私の疑問──五十歳になった私をして自殺にまで駆り立てたところの──は愚昧 な幼児から懸命な老人に至るまで万人の心に秘められている最も素朴な疑問であ り、それなしには生きることの不可能な疑問であることは私が実際に体験したと ころだった。その疑問というのは──〈私がきょうもやり、あすもやるようなこと からいったい何が生じるのか、私の全生活から何が生まれるというのか?〉という ことなのである。別の表現をすれば、疑問は次のようになるだろう──〈なんのた めに私は生きなければならないのか、なぜなにかを望み、なにかをしなければなら ないのか?〉さらにこうも言えよう──〈私の生活の中には、待ち設けている避け がたい死によって消滅しないような意味があるのだろうか?〉


佐藤によると、人生の意味をめぐる問題を哲学思索として扱う意義は、トルストイのよう に、この問題で苦しむ人々を救うためにあると言う。そして「人生の意味」「生きる意味」 を求めて苦しんでいる、ニヒリズム的状況に陥る人に対して精神医学者のフランクルがロ ゴセラピーという精神療法を開発したように、哲学もまた、あるいは哲学こそこの人生の意 味という問題、あるいはその喪失としてのニヒリズムへの対処という問題に立ち向かうべ きであると言い立てた。
上述のように、人生の意味をめぐる問題は、ある人にとっては全くの無意味だが、ある人 にとっては自殺を駆り立てるほどの苦しみを伴う重大なものなのである。この二つの反応 は、一見、相容れないように思える。しかし、両者は共通して、人生をめぐる問題が含んで いるあまりの難しさから生じるものなのである。次章から展開する人生をめぐる問題の難 しさについての考察は、この問題によって苦しむ人々のほんの少しの手助けとなるかもしれない。